2012年5月28日月曜日

高尾山・高尾山薬王院

明治の森高尾国定公園の高尾山を、約20年ぶりで歩いて来ました。

高尾山口から高尾山山頂 - もみじ台 - 一丁平まで、 表参道コース 5.4km

富士山や丹沢の眺めを楽しむことができます、天気は山日和ですが、遠方は雲に覆うわれて、霞んで、山の山容が薄く望めます。

高尾山薬王院 真言宗智山派の大本山の寺

古来から、信仰の霊山として、高尾山は修験道のお山といわれております。修験道を修める人のことを山に臥し野に臥しながら修行することから「山伏」と呼ぶようになりました。高尾山には、今もなお「琵琶滝」と「蛇滝」の二つの滝を擁し、滝修業の道場として、一般の方にも門戸を開いております。

修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験道の実践者を修験者または山伏という。

修験道の法流は、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類される。当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師に端を発し、本山派は園城寺の増誉が聖護院を建立して熊野三所権現を祭ってから一派として形成されていった。真言宗や天台宗は皇族・貴族との結びつきが強いが、修験道においては一般民衆との関わりを持っていた点で、修験者(山伏)の役割は重要であった。

高尾山山門

高尾山本殿

高尾山山頂の眺望

一丁平


高尾山の花を紹介、アルバムを鑑賞してください。


ツイッター に sanae‏ さんが、ユキワリソウを投稿。紫の可愛い花、会いたいあの人(花)に。

2012年5月20日日曜日

袈裟丸山

足尾山塊に属する、袈裟丸山を歩いて。

※注意 説明文は、写真の上段書くとした。    最下段に、フォトブックがあります、ご鑑賞ください。

花の袈裟丸山、距離約13km、標高差708m(累積標高差1277m)。

今回は、折場登山口から、弓の手コース。

折場登山口=賽ノ河原=小丸山=小丸避難小屋=前袈裟丸山=後袈裟丸山(1908m)往復
往復、休憩含み(9時間15分)。

袈裟丸山の山名について
増田 宏さんが、次のように書いています。
袈裟丸山の山名の由来について、群馬県側の地元勢多郡東村に次のような伝説がある。それによると、弘法大師が赤城山を開山しようとしたところ、赤城山の山神は仏教の地となることを嫌い一つ谷を隠して九百九十九谷しか現わさなかったので、開山に必要な千谷に満たなかった。大師は残りの一谷を探して袈裟丸山まで来たが、ここでも見付けることができず、着ていた袈裟を丸め山に投げ付けて開山を諦めて帰った。

後袈裟丸山
シラビソの枯れ木が、なんとも言えない雰囲気だしている。左に郡界尾根、雪を抱いた至仏山、武尊山、右奥奥袈裟丸。

左から、松に隠れた前袈裟丸(1878.2m)、後袈裟丸山(1908m)、中袈裟(1900m)、奥袈裟(1957.9m)、最 高点は北峰(1961m)の五峰がそびえる。


折場登山口、朝、目を覚ますと、駐車場だけで約20台くらいあり、外道路路肩に数え切れない車であふれていた。
♪ 朝風の流るゝ 明るい尾根をたどれば ♪♪ 折場出発。
弓の手、朝日の差す尾根、左気持ちの良い草原、左下に白糸の一条の沢、利根川水系の小中川の支流が見えます。後方に、赤城山、根本山、氷室山。左前方に、袈裟丸山の山並み。右下にも沢があり、コバイケイソウの芽が見える。
先々月(3月頃)、小中川のヤマメから490デシベルのセシウムが検出され、県が食用自粛要請が漁協にありました。
何とも言いようのない気持ちで一杯です。去年、根本山の山麓に、放射能の観測機があり驚かされました。



つつじ平、附近より、アカヤシオが迎えてくれます。




朝のひかり、真っ青空、歩くことを忘れる、一瞬、後袈裟丸山は、遙か彼方に。


賽ノ河原

賽ノ河原を過ぎた附近からヤシオが群生しています。






歩みは、写真ペース、途中から、土浦の通称プロの写真屋さん夫婦と、抜かれ、抜きつつ、奥さんは山姥のごとく山を掛け登り、下る、親父がいないなと思うと、熊笹の中から現れると、登山道からかかなり離れたところに、綺麗な真っ赤なヤシオが咲いている、小丸山、今度は、三脚を立て、二人で、ツーショット。
小丸山(小袈裟)を過ぎ、急登を下り、広い鞍部、白樺の明るい気持ちの良い林、小丸山避難小屋があります。


ダテカンバの林、正面に前袈裟丸山が見え、一筋、ガレが垂直に下がっている、左の方に巻いて急登、フエースの張った、岩と粘性土の道を登って行くと、今度は右の方向へ、熊笹の中、重い足、息を弾ませ登って行くと、前袈裟丸山の山頂、かなりの入山者がいます。
前袈裟丸山 山頂(1878.2m)一等三角点


今回は、この先を目指す、登山道の見えない(入山者の少ない)熊笹の中の急登を下る、シラビソ、シャクナゲの群生のやせ尾根を慎重に、ハ反張のコルが見えて来ました、下り口は鉄パイプに鎖をつかまらないと左の谷底に、巾700cm位を通過し、こんどは、しばらくやせ尾根の急登が山頂付近まで続き、最後熊笹の直登が。シャクナゲの咲く頃は見事でしょう(6月)。
前袈裟丸山と後袈裟丸山の鞍部(コル)を八反張という。その名の由来は昔、鳥を捕えるために網を張った場所であって、張った網の大きさが八反であったことからそう呼ばれるようになった。
ハ反張の鞍部


展望はよくない、郡界尾根で登って来た人たちもいます。(前袈裟丸山からは、禁止になっている)
後袈裟丸山 山頂(1908m)郡界杭の+字


11:10分、山頂より、復路(往復)を下山、危険箇所は、前袈裟丸山の間の八反張附近のやせ尾根、前袈裟丸山の登り返しは、楽でした。
前袈裟丸山の山頂で、昼食、いつものコンビニのおにぎり、ラーメン今日は(きざみネギ持参)、コーヒー。
昼食後、前袈裟丸山を後に。小丸山避難小屋、袈裟丸山のトイレは、結構綺麗です、水場が近くにある(確認はしてない)。
小丸山避難小屋


小屋の中をのぞいて見ました、中は綺麗です、5人くらいのスペースがあります、もう予約客がいます、荷物をデボしています。おそらく、袈裟丸山の最高峰、三つの峰からなり中央の峰に1958mの三等三角点があるが、最高点は北峰の1961mがある、まで行って来るのであろう。最高点は、熊笹の中に埋もれて見つかりにくいらしい。私も最高峰まで歩きたい。


避難小屋鞍部の小丸よりで、休んでいた、子供を連れた夫婦に会いました、折場から入山した。


小丸山の巻き道通行禁止なっています、この先、登り返しが二ヵ所あります、小丸山と、雨量観測所です。重い足取りで、小丸山山頂。これから長い下り、登山道は、水がしみ出し歩きづらいので、右の熊笹の中、ヤシオをもとめ、ところかまわず笹の中歩いて来ました、今度は、雨量観測所の岩尾根の登り、登り切って、登山道からそれて、観測所へ、ヤシオが満開、一番綺麗なヤシオの根本で、昼寝していた夫婦をおこしてしまいました。

賽の河原、長い弓の手の熊笹の草原、かなりの急降下、つま先に足の指があたる。和ますのは、右側の沢の先の新緑の色、絵を書いて色を塗る時、悩む、迷うような、何とも言えない、淡い色の新緑が和ます。 (右に郡界(西黒)、左に塔の沢(マチガ)、今日の凱歌に、足どり軽く かけりゃ折場(土合)も はや真近、トコズンドコ ズンドコ♪♪)谷川小唄には、ほど遠い、足を引きずり帰って来ました、折場登山口。


さらば両毛(上越) 渡良瀬(湯檜曽)の流れ
さらば沢入(土合)よ 袈裟丸山(谷川岳)よ
またの来る日を 心に誓い
たどる車(列車)の 窓の夢
トコズンドコ ズンドコ♪♪

可愛い花たち。

白ヤシオ(五葉ツツジ)とミツバツツジ


スミレ


スミレ


 バライチゴ


ショウジョバカマ

コバイケイソウ、マイズルソウ。

鹿に会いました。
しか、林道小中西山線に入って夜中、三頭に会いました、しかは、夜行性なのか、夜中結構会いますね。
ここ袈裟丸山の狩猟鳥獣の捕獲禁止区域の標識にニホンジカ以外と書いてあります、ニホンジカの捕獲等はよい。
しかの尻


役小角に、まつわる、修験道の奉納札。奥袈裟丸山の山頂にて。


眺望できた山、赤城山、浅間山、四阿山、上州武尊山、至仏山、谷川岳、日光白根山、男体山。

2012年5月7日月曜日

雲取山・七ツ石山・斧手石

奥多摩の最高峰雲取山 2017m を歩いて

鴨沢に始まるこの、アップダウンの少ないルート、全般に緩い登りが、七ツ石小屋手前当たりまで続き、七ツ小屋あたりから、高度を上げて行き、 この尾根が石尾根(七ツ石山)に到達する、雨に降られても、よい状態で、安心して使用できるルートである、七つ石山から急斜面で下って、ブナ坂十字路、巻き道ルートの合流点に出る、ここから、雲取山へは、稜線の広々とした防火帯を登っていく急坂もあって、ヘリポートの先は奥多摩小屋を過ぎしばらくし、急な登り、小雲取山の分岐(宮田新道)、またしばらく急坂続き、ガス・雨の中登って行くと、雲取山避難後小屋が、右側に、小屋の裏側にあるピーク雲取山山頂、三角点の標石がある。北へ下って雲取山莊(宿泊)。往復。


七ツ石山 1757m、七ツ石神社

平将門伝説が残る神社として、知られています。

将門が生まれたのは現在の茨城県常総市。
平将門(たいらのまさかど)はときの中央政府に背き、常陸国府(国府は諸国にあった地方統治の中心地)を襲撃した武将だ。もともとは親類の領地争いに巻き込まれたのが発端ともいわれているが、一時は板東(関東)に国を造り上げるほどの勢いがあった。常陸国府を襲撃したのは天慶二年(939年)11月のこと。それ以後後戻りのできない戦いに将門は突入し、最後には中央政府から派遣された藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討たれて波乱の生涯を終えた。

  将門が生まれたのは、現在の茨城県常総市にあった豊田館だ。この豊田館跡は現在「将門公苑」となっている。


七ツ石

七ッ石を平将門と結びつける伝承が残されていた。平安時代のご「承平、天慶の乱」で、藤原秀郷におわれた平将門一行が奥多摩山中のこのあたりに陣取りました。将門は6人の影武者の藁人形を作り、そのまん中に自らが立って、攻めてきた藤原秀郷に対して、どれが本物かと挑発をした。秀郷が成田不動に念じると「白い息をしているのが将門だ」とお告げがあり、中央の人形に向かって矢を放つと、とたんに7人武者は岩になったという。また、将門は七ッ石山の神体を守護神とした、武蔵野国に落ちて行ったという伝承もあった。
書いてあります。

七ツ石神社

七ツ石山東側直下に小さな神社があります。七ツ石神社といい、七ツ石山の伝説の平将門が祭られています。
この神社は4月8日が祭日で、かつては南麓の山梨県北都留郡丹波山村小袖地区の村人が登拝し、神社前と山梨県側の尾根道の途中で、賭博が開かれていたという。
開帳された場所はいまでも堂所(どうどころ)の地名が残っています。賭博は1961(昭和36)年くらい前まで行われていたという。昔はかなり盛大で、青梅市の親分が「出ばって」きたといい、丹波山村にも親分がいて胴元になったらしい。
客はいずれも多摩川上流に住む山村の人たちだったという。賭博はサイコロ、花札を使う奇偶賭博打で勝負が早く、あがる寺銭もかなりの額だったという。
また勝負師の神として各地から親分衆がお参りに集まったといいます。
書いてあります。


小袖

小袖集落跡があり、将門が雨に濡れて、小袖を乾かしたところだといいます。また、小袖をおいていったところだろうか、将門の妃のこと。
伝説等が書いてあります。


七ツ石山・雲取山

前夜11:20分頃入山、小袖駐車場で仮眠(約40台位駐車出来る)、早朝、小袖山・赤指尾根は、ガスが、下界から、小袖山に、登り龍のごとく上がる、中国の水墨画のような、また夏の朝の神秘的雰囲気だが、今日は違う、山は午後早く雨になり。明日は、120%、雨。

往路

小袖の駐車場出発
標高733m附近から、高低差1284m、距離約9kmを登ります。


小袖乗越登山口
駐車場から舗装道路を北へ携帯のアンテナを直進、まもなく登山口。


廃屋
緩やかな、登り尾根を登って行くと、伝説の小袖の集落後かな、立派な作りの廃屋があります。


堂所(ゴウドコロ)休憩(ストック現地調達)
登り尾根、檜の森、緩い勾配の長い登山道、尾根の上出ます。
ここからは尾根の背を 行くようになり、やや急な登りとなり沢側に出ると、すぐ折り返し尾根の東側薄暗い尾根を登って行くと西方向に、ブナ坂巻き道の手前を右上に、七つ石小屋に向かう道を小屋へ。

七ツ石小屋 休憩(美味しい水、若い小屋番)
小屋を過ぎ急な登り、すぐ、ブナ坂・雲取山、七ツ石山・鷹ノ巣山分岐、左下に水場が見える。右折してすぐ、また七ツ石山、鷹ノ巣山(千本ツツジ)分岐を左折。直登してまもなく分岐、七ツ石山、鷹ノ巣山の分岐を左折。

七ツ石神社
平将門伝説が残る神社としても、しられていますが、傾き掛けた、本殿、上屋が鎮座しています、鳥居も倒れそうです。

七ツ石、7人の武者は岩なった
急な石尾根を息を切らして登って行くと。


七ツ石山(1757m)
山頂到着。雲取山方面の絶好の展望場所なのですが、ガスって近くの登山者しか見えません、私達が到着した時は、誰もいませんでしたが、写真を撮影していると、若い山ボーイが2人登ってきました。この先急な道を、下降し石尾根の縦走路とのブナ坂十字路分岐へ。

ブナ坂十字路分岐
鴨沢巻道、日原、雲取山分岐直進。東北の夫婦の方に会いました。ブナ坂(石尾根は防火帯)からは傾斜もゆるい、笹の草原尾根を登り、下り、進む、マルハダケブキの葉(芽)が群生している。


五十人平ヘリポートに到着
前方奥にヘリポートがあり、白いマーキングが見える。

奥多摩小屋(素泊まりのみ)休憩
ランプと薪ストーブの小屋、管理人は常駐で、70名。この先、結構きつい登りが続く、標高を上げて行く、今にも振り出しそうな雲が空を覆っていたが、いよいよ泣き出した、雨はやみそうに無い、途中のコブで、カッターシャツを脱いで、半袖の上にカッパを、ズボン、靴が通らないでやっと装着、ザックカバーを付け歩き出す。


富田新道分岐
雨は本降りになる。小雲取山頂は、登山道沿い、にないのか見つからなかった。急な登り、重い足を引きずって、一歩一歩山頂への道。

雲取山避難小屋
登山道の直線上、小屋の手前(南側)に雲取山の標識があるが、山頂ではない。

雲取山避難小屋の中
綺麗な避難小屋、25名位の登山客、また夫婦に会いました、シソの葉でくるんだ干し柿を戴きました、中は、ストーブ(バーナー)を使っているので、暖かい、私達も、昼食、ラーメン(マルちゃんの正麺、美味しい)とおにぎり、コーヒー、食べ終わる頃は、5~6人、山のお昼過ぎ、ゆっくりしている登山者はいません(外は雨)行動開始、裏(北)へ。
山ではあまり食べないのか、せっかくしょってきたおにぎり(賞味期限切れた非常食)家まで。

雲取山山頂 2017.1m(埼玉県)
写真のとおり、山頂、自分の周囲しか見えません、附近の物、行て確かめないとなんだか判りません、ガスって、自分の足下の登山道だけを見てここまで登って来ました。

一等三角点

雲取山山頂(東京都)
北方向へ、急な下り、ぬかるんだ道、雪の上に泥が覆い滑る、かなり下った、赤い屋根がガスの中ぼんやり見える。

雲取山莊到着
小屋に着くなり、表の乾燥小屋でぬれた物を乾かすよう指示。(登り 7時間30分休憩ふくみ)

小屋の部屋
暖かいこたつがある、神戸からきたという夫婦と相部屋(前日、両神山を登り、今日、三峰口から来たという)です、とりあえずフロントで缶ビール(最近スーパードライ)を一本、ストーブが2台、周囲をとりかこむよう、山の話に花が咲いていた、小屋番に今日は何人くらいと聞いたら、今の所60人くらいと言い、今日は、山ガールは一人も来てないという、私が隣の中年の夫婦(茨城)を振りかえると、顔の前で手を振った、なるほどと、小屋番を見ると苦笑していた。

楽しみの夕食(18:00から)
今日は、連休の普通の日、宿泊者は少ないのだろう、一回で皆済んだ、ようだ、収容200人と言うが、400名泊めたことがあるという。

朝食(5:00から)
 素泊まりのお客もけっこういました、4:00頃から自炊して食べていた。
トイレは、夏用トイレで表にありますが、水洗で、綺麗で清潔かんあふれていました。
でも夜、トイレ(やむことを知らない雨)に今の時期行く人は大変だ。

復路
開けて次の日、一晩中雨音を立てて降り続く雨、山頂直下のずたずたの道を避け、小屋上部の巻き道行きます。

巻き道分岐 左(東)
小さな社があります。

鴨沢巻き道
残雪が残り腐れ雪が滑る、踏み抜く。雪が終わると一番先に咲き出すそうです。バイカオウレンの白い可愛い花が迎えます、日に何回もガスと風が適当な水分を運び、コケを育てています(名前の判らないコケが沢山ある)。
石尾根分岐に向かう。分岐から往路を下る、尾根に(登山道)雨は、大きな水たまりを作り、避けて通過する。

ヨモギノ頭附近
雨は、いっこうにやむ気配無し、ガスに煙る登山道見える物は尾根の周辺だけ、右斜面にワラビ尾根。ただ黙々下る。


ブナ坂十字路分岐
石尾根、七ツ石山巻き道、右折、足取りも軽く(重い足)、標高を下げて行く。


七ツ石小屋分岐手前の木橋
片倉谷沢源流最上部、が崩れて橋の橋脚が折れ修復されていた、渡り切った岩肌から、雨の水が滝にように登山道に落ちていた。


倒れかかる七ツ小屋分岐
最後の巻き道分岐(もう一つあるこの先斜め左上へ)、鴨沢110分。

往路を、小袖乗越登山口。雨の中ひたすら下界へと歩いて来ました。
(下り、3時間45分休憩しないで歩いて来ました。(`・ω・´))


迎えてくれた花達


バイカオウレン

ハシリドコロ

ヨゴレネコノメ

ヒトリシズカ

ミヤマケンマ

ナガバノスミレ

マムシソウ

キンバイ

花等の名前の間違いをお気づきの時は、投稿お願い致します。

山桜・桃の花・三つ葉ツツジ・スミレ等も咲いていました。

雲取山
修験道の道場として知られる大雲取山が那智熊野にあり、この山の名を取って雲取山と名付けた、修験道の行場で、雲取山は三峰神社の奥ノ院でもありました。
雨の中歩いて来たので、役小角等にまつわる物は確認出来ませんでした。



鴨沢ルート 登山道は広く、歩きやすい、道標はしっかりし、道案内をしてくれる、途中、通年、小屋番のいる避難小屋が2ヵ所、山頂にも避難小屋、頂きから20~30分で雲取山莊があり、安心して歩ける山である。


雨の中を歩くと、歴史を見落としてしまう、鴨沢からの尾根ルート、斧手石、石碑、石文、七ツ石神社、堂所、小袖。




斧手石、碑文

斧手石、石碑について

丹波山村役場、丹波山村インフォメーション TABAYAMA VILLAGE 様から、おので石についての、言われをお借りしたので、紹介致します。

おので石

今の七ツ石山の下の方に、おので石という大きな岩石がある。
昔のある日、保之瀬の若い衆が七ツ石神社に参拝に行く途中、斧手石まで来てちょっと一服しているとき、中の一人が斧手石をみて「なんだこの大石は、ちょっとつつけば、転がっていきそうだ」などと言いながらいたずら半分に力一杯押した途端、この大石は土煙を上げまわりの木々をなぎ倒しながら、谷底を目指してもの凄いい勢いで転がり落ちていった。
驚いていた若者も、自分の力を自慢しながら参拝を済ませて村に帰ってきた。
その後、村に疫病がはやり、「あの石を転がし落とした祟りだ」と言い出すものもいて大騒ぎとなった。困った村の人たちは、今の奥多摩の人々にもお願いをして、大石を元の場所に引き上げることとし、幾日もかかってようやく元の場所に引き上げることができた。
以後、疫病も治まり村人は安心した。
この石には、その時に手伝った人々の名が掘られていたが、今ではかすれて読みにくくなってしまった。
※文献では、「文政年間(皇紀2478年頃)落とし、 元治元年(皇紀2524頃)引き上げる。」となっている。

斧手石の碑文を書いた人は、峯谷川の出会い、金鳳山普門寺の禅宗和尚で玉隠という人である。