群馬県桐生市の最高峰 根本山を歩いて
群馬県と栃木県の県境の山 根本山(標高1199m)
渡良瀬川の支流、桐生川の根本沢から山頂は、信仰の山であり、最盛期は、江戸後期の文政年間から安政年間にかけての時期で、当時、根本山神社の社地は、彦根藩の領地であって、領主井伊直弼が暗殺された、桜田門外の変の頃まで栄えたと言われています。
根本山神社奥の院は、2m弱の三方が断崖の上に、鐘楼も同じやせ尾根の手前にあり、鐘楼の中をくぐって行く、立派な彫刻が施された、奥の院の社、当時何人もの信仰信者が背負って来て、ここで組み立てた?また現地で、伐採して、何十年も掛けて、宮大工、彫刻士が、製作した、また梵鐘は、現地では出来ないので、(鋳物枠等を作って、唐鐘を溶解して、流し込む)強力が担いで来たのか、信仰とは、はかりしれない力、またロマンがあります。
根本山 山頂 (三角点は、ない 御影石郡界)
上野国(こうずけのくに)根本山、十二山、氷室山は、修行の場であった、修験者は、天狗とも呼ばれていた、(お寺を持たなく、山の中をひたすら歩き、修業をする修験道の行者を山伏と言う、(天狗、烏天狗は、山伏の装束を身にまとう。)頭に頭巾(ときん)と呼ばれる多角形の帽子のような物を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖を持つ、袈裟(けさ)と篠懸(すずかけ)という麻の法衣を身にまとう。
上野国(こうずけのくに)群馬県は、かって日本の地方行政区分だった国の一つで、東山道(とうさんどう、とは、本州の内陸部を近江国から陸奥国に貫く地方、およびそこに設けられた幹線道(街道)をさす。)に属する。上州(じょうしゅう)または、上毛(じょうもう)とも呼ぶ。
ルート 不死熊橋取り付き-根本沢-奥の院-根本山-根本山神社-十二山-熊鷹山-石鴨林
道-不死熊橋
不死熊橋の林道ゲート前の、左の岩稜を、直登して(ロープ)取り付く。
治山の布団籠の多段積みの、沢を、左岸から沢に渡り右岸側を尾根を巻いて行く。
右岸を高巻していくと、左に紅葉の尾根が見える(根本山から下降した尾根)
丁石 十四丁と刻んである。丁は、1.82×60間=109.2m、約1530mでは、距離が合わない、根本山ではなく奥の院を示している???
沢の中に石物 奉献根本山神宮
左岸に石灯籠 沢歩きは終わり左岸の鎖場に取り付く。
根本山奥の院、彫刻がすばらしい。
いよいよ根本沢の核心部 約15mの鎖場、やせ尾根の直登を、9から10ヵ所鎖場を登って行きま
す。
鎖場途中を振り返ると、日光連山、皇海山、庚申山が眺望できます。
峰の平の、根本山の沿革が書いてあるが、風化して読めません。
根本山 山頂、木々の間から日光連山、足尾の山見える。
根本山より 10分で 根本神社、かなり広い平らな尾根にあります、当時は相当に栄えた形跡が忍ばれます。
奉献のまさかり(斧) 手水舎(ちょうずや、てずみや)の水盤舎(すいばんしゃ)
舎は、ありません、拝礼の前に手を洗い口をすすいで身を清める。
尾根の上、水はどうしたのでしょう。(雨)??
神社から 10分くらいで、十二山 山頂 1143m(三角点は、ない コン字界)
十二山より 30分 少し下りる、広い気持ちの良いクマザサの尾根を降りて行くと、正面に、展望台が見え、登って行くと、熊鷹山があります。
展望台からは、360° 眺望できます、八ヶ岳、浅間山、赤城山、谷川岳、雪の日光白根、日光連山、筑波山、袈裟丸山、皇海山、庚申山。
熊鷹山 山頂 登山届けの中に、下記が書いてありました。
1168.6m
二等三角点 山に全てをかけても
悔ゆることなし
(くやむことはない)
熊鷹山 山頂分岐を右に、いきなり急な下り、頂上からロープが張ってあります、途中2ヵ所の分岐が(丸岩岳)左にあり、直進、20分くらいで、石鴨林道出ます、右林道を1時間歩いて、途中、右側に、中尾根の取り付きがあり、不死熊橋へ。
石鴨林道の紅葉 根本尾根のコメツツジの紅葉
紅葉は、800m、付近より麓へ。
快晴の根本山を、山伏(天狗)が歩いて。