2012年5月7日月曜日

雲取山・七ツ石山・斧手石

奥多摩の最高峰雲取山 2017m を歩いて

鴨沢に始まるこの、アップダウンの少ないルート、全般に緩い登りが、七ツ石小屋手前当たりまで続き、七ツ小屋あたりから、高度を上げて行き、 この尾根が石尾根(七ツ石山)に到達する、雨に降られても、よい状態で、安心して使用できるルートである、七つ石山から急斜面で下って、ブナ坂十字路、巻き道ルートの合流点に出る、ここから、雲取山へは、稜線の広々とした防火帯を登っていく急坂もあって、ヘリポートの先は奥多摩小屋を過ぎしばらくし、急な登り、小雲取山の分岐(宮田新道)、またしばらく急坂続き、ガス・雨の中登って行くと、雲取山避難後小屋が、右側に、小屋の裏側にあるピーク雲取山山頂、三角点の標石がある。北へ下って雲取山莊(宿泊)。往復。


七ツ石山 1757m、七ツ石神社

平将門伝説が残る神社として、知られています。

将門が生まれたのは現在の茨城県常総市。
平将門(たいらのまさかど)はときの中央政府に背き、常陸国府(国府は諸国にあった地方統治の中心地)を襲撃した武将だ。もともとは親類の領地争いに巻き込まれたのが発端ともいわれているが、一時は板東(関東)に国を造り上げるほどの勢いがあった。常陸国府を襲撃したのは天慶二年(939年)11月のこと。それ以後後戻りのできない戦いに将門は突入し、最後には中央政府から派遣された藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討たれて波乱の生涯を終えた。

  将門が生まれたのは、現在の茨城県常総市にあった豊田館だ。この豊田館跡は現在「将門公苑」となっている。


七ツ石

七ッ石を平将門と結びつける伝承が残されていた。平安時代のご「承平、天慶の乱」で、藤原秀郷におわれた平将門一行が奥多摩山中のこのあたりに陣取りました。将門は6人の影武者の藁人形を作り、そのまん中に自らが立って、攻めてきた藤原秀郷に対して、どれが本物かと挑発をした。秀郷が成田不動に念じると「白い息をしているのが将門だ」とお告げがあり、中央の人形に向かって矢を放つと、とたんに7人武者は岩になったという。また、将門は七ッ石山の神体を守護神とした、武蔵野国に落ちて行ったという伝承もあった。
書いてあります。

七ツ石神社

七ツ石山東側直下に小さな神社があります。七ツ石神社といい、七ツ石山の伝説の平将門が祭られています。
この神社は4月8日が祭日で、かつては南麓の山梨県北都留郡丹波山村小袖地区の村人が登拝し、神社前と山梨県側の尾根道の途中で、賭博が開かれていたという。
開帳された場所はいまでも堂所(どうどころ)の地名が残っています。賭博は1961(昭和36)年くらい前まで行われていたという。昔はかなり盛大で、青梅市の親分が「出ばって」きたといい、丹波山村にも親分がいて胴元になったらしい。
客はいずれも多摩川上流に住む山村の人たちだったという。賭博はサイコロ、花札を使う奇偶賭博打で勝負が早く、あがる寺銭もかなりの額だったという。
また勝負師の神として各地から親分衆がお参りに集まったといいます。
書いてあります。


小袖

小袖集落跡があり、将門が雨に濡れて、小袖を乾かしたところだといいます。また、小袖をおいていったところだろうか、将門の妃のこと。
伝説等が書いてあります。


七ツ石山・雲取山

前夜11:20分頃入山、小袖駐車場で仮眠(約40台位駐車出来る)、早朝、小袖山・赤指尾根は、ガスが、下界から、小袖山に、登り龍のごとく上がる、中国の水墨画のような、また夏の朝の神秘的雰囲気だが、今日は違う、山は午後早く雨になり。明日は、120%、雨。

往路

小袖の駐車場出発
標高733m附近から、高低差1284m、距離約9kmを登ります。


小袖乗越登山口
駐車場から舗装道路を北へ携帯のアンテナを直進、まもなく登山口。


廃屋
緩やかな、登り尾根を登って行くと、伝説の小袖の集落後かな、立派な作りの廃屋があります。


堂所(ゴウドコロ)休憩(ストック現地調達)
登り尾根、檜の森、緩い勾配の長い登山道、尾根の上出ます。
ここからは尾根の背を 行くようになり、やや急な登りとなり沢側に出ると、すぐ折り返し尾根の東側薄暗い尾根を登って行くと西方向に、ブナ坂巻き道の手前を右上に、七つ石小屋に向かう道を小屋へ。

七ツ石小屋 休憩(美味しい水、若い小屋番)
小屋を過ぎ急な登り、すぐ、ブナ坂・雲取山、七ツ石山・鷹ノ巣山分岐、左下に水場が見える。右折してすぐ、また七ツ石山、鷹ノ巣山(千本ツツジ)分岐を左折。直登してまもなく分岐、七ツ石山、鷹ノ巣山の分岐を左折。

七ツ石神社
平将門伝説が残る神社としても、しられていますが、傾き掛けた、本殿、上屋が鎮座しています、鳥居も倒れそうです。

七ツ石、7人の武者は岩なった
急な石尾根を息を切らして登って行くと。


七ツ石山(1757m)
山頂到着。雲取山方面の絶好の展望場所なのですが、ガスって近くの登山者しか見えません、私達が到着した時は、誰もいませんでしたが、写真を撮影していると、若い山ボーイが2人登ってきました。この先急な道を、下降し石尾根の縦走路とのブナ坂十字路分岐へ。

ブナ坂十字路分岐
鴨沢巻道、日原、雲取山分岐直進。東北の夫婦の方に会いました。ブナ坂(石尾根は防火帯)からは傾斜もゆるい、笹の草原尾根を登り、下り、進む、マルハダケブキの葉(芽)が群生している。


五十人平ヘリポートに到着
前方奥にヘリポートがあり、白いマーキングが見える。

奥多摩小屋(素泊まりのみ)休憩
ランプと薪ストーブの小屋、管理人は常駐で、70名。この先、結構きつい登りが続く、標高を上げて行く、今にも振り出しそうな雲が空を覆っていたが、いよいよ泣き出した、雨はやみそうに無い、途中のコブで、カッターシャツを脱いで、半袖の上にカッパを、ズボン、靴が通らないでやっと装着、ザックカバーを付け歩き出す。


富田新道分岐
雨は本降りになる。小雲取山頂は、登山道沿い、にないのか見つからなかった。急な登り、重い足を引きずって、一歩一歩山頂への道。

雲取山避難小屋
登山道の直線上、小屋の手前(南側)に雲取山の標識があるが、山頂ではない。

雲取山避難小屋の中
綺麗な避難小屋、25名位の登山客、また夫婦に会いました、シソの葉でくるんだ干し柿を戴きました、中は、ストーブ(バーナー)を使っているので、暖かい、私達も、昼食、ラーメン(マルちゃんの正麺、美味しい)とおにぎり、コーヒー、食べ終わる頃は、5~6人、山のお昼過ぎ、ゆっくりしている登山者はいません(外は雨)行動開始、裏(北)へ。
山ではあまり食べないのか、せっかくしょってきたおにぎり(賞味期限切れた非常食)家まで。

雲取山山頂 2017.1m(埼玉県)
写真のとおり、山頂、自分の周囲しか見えません、附近の物、行て確かめないとなんだか判りません、ガスって、自分の足下の登山道だけを見てここまで登って来ました。

一等三角点

雲取山山頂(東京都)
北方向へ、急な下り、ぬかるんだ道、雪の上に泥が覆い滑る、かなり下った、赤い屋根がガスの中ぼんやり見える。

雲取山莊到着
小屋に着くなり、表の乾燥小屋でぬれた物を乾かすよう指示。(登り 7時間30分休憩ふくみ)

小屋の部屋
暖かいこたつがある、神戸からきたという夫婦と相部屋(前日、両神山を登り、今日、三峰口から来たという)です、とりあえずフロントで缶ビール(最近スーパードライ)を一本、ストーブが2台、周囲をとりかこむよう、山の話に花が咲いていた、小屋番に今日は何人くらいと聞いたら、今の所60人くらいと言い、今日は、山ガールは一人も来てないという、私が隣の中年の夫婦(茨城)を振りかえると、顔の前で手を振った、なるほどと、小屋番を見ると苦笑していた。

楽しみの夕食(18:00から)
今日は、連休の普通の日、宿泊者は少ないのだろう、一回で皆済んだ、ようだ、収容200人と言うが、400名泊めたことがあるという。

朝食(5:00から)
 素泊まりのお客もけっこういました、4:00頃から自炊して食べていた。
トイレは、夏用トイレで表にありますが、水洗で、綺麗で清潔かんあふれていました。
でも夜、トイレ(やむことを知らない雨)に今の時期行く人は大変だ。

復路
開けて次の日、一晩中雨音を立てて降り続く雨、山頂直下のずたずたの道を避け、小屋上部の巻き道行きます。

巻き道分岐 左(東)
小さな社があります。

鴨沢巻き道
残雪が残り腐れ雪が滑る、踏み抜く。雪が終わると一番先に咲き出すそうです。バイカオウレンの白い可愛い花が迎えます、日に何回もガスと風が適当な水分を運び、コケを育てています(名前の判らないコケが沢山ある)。
石尾根分岐に向かう。分岐から往路を下る、尾根に(登山道)雨は、大きな水たまりを作り、避けて通過する。

ヨモギノ頭附近
雨は、いっこうにやむ気配無し、ガスに煙る登山道見える物は尾根の周辺だけ、右斜面にワラビ尾根。ただ黙々下る。


ブナ坂十字路分岐
石尾根、七ツ石山巻き道、右折、足取りも軽く(重い足)、標高を下げて行く。


七ツ石小屋分岐手前の木橋
片倉谷沢源流最上部、が崩れて橋の橋脚が折れ修復されていた、渡り切った岩肌から、雨の水が滝にように登山道に落ちていた。


倒れかかる七ツ小屋分岐
最後の巻き道分岐(もう一つあるこの先斜め左上へ)、鴨沢110分。

往路を、小袖乗越登山口。雨の中ひたすら下界へと歩いて来ました。
(下り、3時間45分休憩しないで歩いて来ました。(`・ω・´))


迎えてくれた花達


バイカオウレン

ハシリドコロ

ヨゴレネコノメ

ヒトリシズカ

ミヤマケンマ

ナガバノスミレ

マムシソウ

キンバイ

花等の名前の間違いをお気づきの時は、投稿お願い致します。

山桜・桃の花・三つ葉ツツジ・スミレ等も咲いていました。

雲取山
修験道の道場として知られる大雲取山が那智熊野にあり、この山の名を取って雲取山と名付けた、修験道の行場で、雲取山は三峰神社の奥ノ院でもありました。
雨の中歩いて来たので、役小角等にまつわる物は確認出来ませんでした。



鴨沢ルート 登山道は広く、歩きやすい、道標はしっかりし、道案内をしてくれる、途中、通年、小屋番のいる避難小屋が2ヵ所、山頂にも避難小屋、頂きから20~30分で雲取山莊があり、安心して歩ける山である。


雨の中を歩くと、歴史を見落としてしまう、鴨沢からの尾根ルート、斧手石、石碑、石文、七ツ石神社、堂所、小袖。




斧手石、碑文

斧手石、石碑について

丹波山村役場、丹波山村インフォメーション TABAYAMA VILLAGE 様から、おので石についての、言われをお借りしたので、紹介致します。

おので石

今の七ツ石山の下の方に、おので石という大きな岩石がある。
昔のある日、保之瀬の若い衆が七ツ石神社に参拝に行く途中、斧手石まで来てちょっと一服しているとき、中の一人が斧手石をみて「なんだこの大石は、ちょっとつつけば、転がっていきそうだ」などと言いながらいたずら半分に力一杯押した途端、この大石は土煙を上げまわりの木々をなぎ倒しながら、谷底を目指してもの凄いい勢いで転がり落ちていった。
驚いていた若者も、自分の力を自慢しながら参拝を済ませて村に帰ってきた。
その後、村に疫病がはやり、「あの石を転がし落とした祟りだ」と言い出すものもいて大騒ぎとなった。困った村の人たちは、今の奥多摩の人々にもお願いをして、大石を元の場所に引き上げることとし、幾日もかかってようやく元の場所に引き上げることができた。
以後、疫病も治まり村人は安心した。
この石には、その時に手伝った人々の名が掘られていたが、今ではかすれて読みにくくなってしまった。
※文献では、「文政年間(皇紀2478年頃)落とし、 元治元年(皇紀2524頃)引き上げる。」となっている。

斧手石の碑文を書いた人は、峯谷川の出会い、金鳳山普門寺の禅宗和尚で玉隠という人である。

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