富士吉田市・富士山レーダー
出かける早朝から、強風が吹いている、冬の澄んだ空気だが、東北道の夜明け前、地平線付近真っ黒な雲が帯び条に東南西にわたりかかっていたが、心配をよそに、圏央道に入り、正面に、真っ白な富士山が見えてきました、いつも関東から見ていると雪の付き具合がわかりませんが、かなり下まで雪があります、富士山は、かなりデリケートですぐ白いベールに包まれて見えなくなり、一日中見えない日がありますので、妻が、高速道路の車の中から撮影に挑戦していますが、なかなかうまく写せません、パーキング入ろうとしますが、今度は富士山が見えません、中央高速、左正面に、姿を見せて来ました。
それは、真っ白いタキシードを着た、雄大な姿の貴男です、快晴の真っ青な空。
富士山レーダー
35年の役割を終えて、富士吉田市で第二の人生を送っています、真っ正面に富士山が見えます。
昭和30年代、日本は度重なる大型台風の上陸により甚大なに見舞われていますた。富士の山頂に気象観測施設を設置すれば、レーダー探知範囲が広がり、南方洋上から接近してくる台風を早期に発見できるようになる。標高3,776mの富士山頂にレーダーを設置することは、気象関係者にとって永年の悲願でした。
昭和38年(1963)6月、富士山頂への気象レーダー建設に着手したものの、工事は困難を極めました。標高3,776mという史上例のない高地での大規模工事、そして乱気流が渦巻く世界有数の危険空域・富士山頂への巨大ドームの空輸・・・。しかし、関係者の情熱と使命感は次々と起こる問題や難作業を克服し、富士山レーダーを完成へと導きました。
昭和39年(1964)9月10日、ついに念願の富士山レーダー完成。翌昭和40年(1965)3月からは本格的な運用を開始し、「台風監視の砦(とりで)」として日本の空を休みなく見つめ続けてきました。台風をいち早く察知し、天気予報や災害防止にその威力を発揮した富士山レーダーは、気象観測技術の発展とともの台風監視の役割を気象衛星や新気象レーダーに引き継ぎ、平成11年(1999)11月、35年間の観測業務の幕を静かに閉じました。
平成12年(2000)、富士山レーダーは、「歴史に残る優れた電気工学技術」として、電気や電子技術に関する国際的な学会IEEEより、IEEEマイルストーンの認定、表彰を受けました。日本では八木アンテナに続く2例目の快挙でした。
日本の気象観測の象徴ともいえる富士山レーダーは、気象観測の大切さを広く知ってもらうための展示施設として、ここ富士吉田市で第二の人生を送っています。
(富士山レーダードーム館 資料による)
交通案内
中央高速道路[河口湖IC]より、国道138号線沿い車で10分、道の駅富士吉田となり。
1999年(平成11年)11月1日、富士山レーダーは、気象衛星にその役割を譲り、35年の歴史に幕を下ろした。一つの時 代は終わった。しかし、その時代を作るために働いた男たちが、確かにいた。
藤原寛人(測器課課長)は、昭和41年に退官し、作家生活に入った。筆名 新田次郎。すなわち小説『富士山頂』の著 者、その人である。気象庁在職中の昭和30年、『強力伝』で第34回直木賞受賞。その後も、主として『蒼氷』『芙蓉の 人』などの山岳小説を通じて日本人の夢と挑戦の物語を書きつづけた。1980年没。享年68歳。
神田真三(朝日ヘリコプター)は、その後も32年間、71歳になるまでヘリコプターを操縦しつづけた。その飛行時間 は、今も日本最高記録である。現在85歳。
伊藤庄助(大成建設)は、その後、昭和45年~48年の富士山測候所庁舎改築工事の際も現場の責任者を務めた。富士 山頂なら、この男しかいないと誰もが思っていたからである。その後は、大成サービス常務、顧問を経、現在77歳。 ひょんな事から富士山と出会い、誰よりも長く富士山と付き合った、この山に弱い男は、しかし今も毎夏の富士山登 山を欠かさない。
富士山頂のレーダードームの一角には、その計画に関わり、極限の現場を支え続けた男たちの名が刻まれている。そ の数は105名。もちろん、植田英雄の名も、伊藤庄助の名も、神田真三の名も、そして本文中に登場した者たちの名 も、そこにある。しかし彼らは、このレーダーの計画・建設に携わった全ての男たちの代表に過ぎない。延べ9000人 の男たちの命を掛けた壮大なプロジェクトであった。
心を打つ、感動する物があります。同業種、山。
是非訪ねて見て下さい。
富士に浮かぶ雲
奇妙な形のほうとう屋さん。
河口湖名物 ほうとう不動
美味しい ほうとうをいただいてきました。
お品書き かなりの量がありますが完食
叔父母様ありがとうございました、お世話になりました。
今日は一日中、富士山は、ほほえんでいました。
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